亀井 孝のアーチェリーノート

アーチェリー選手 亀井孝の娘「Ai」のnote。 2021年8月4日、父が大怪我を負…

亀井 孝のアーチェリーノート

アーチェリー選手 亀井孝の娘「Ai」のnote。 2021年8月4日、父が大怪我を負いました。言葉足らずで不器用な父から毎日届くメールを記録するアカウントです。

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クラス分け

助手席から降りてきた小田凱人は、車いすに頼らず杖を片手に歩き出す。左足には人工関節が入っており、長い距離の歩行は難しいというが、足取りは軽やかだ。歩行時にそれなりの不自由さは確認できるが、誰の手も借りずに階段を上って2階にあるメイクルームに向かった時には驚いた。「筋力の低下を防ぐためにも、普段は立って生活するようにしています」と、本人はリハビリを理由にあげるが、通底しているのはカッコいい自分でありたいという想い。とにかく、見え方、見られ方を強く意識している(ように見える)。

    • 「美しく射つ」ということについて

      どうして分からないのでしょう? それとも、分かっていながら分からないふりをしているのですか? いや、もうそんなことはどうでもいいくらいのところまで来てしまったのでしょうか。 その昔、日本にはたくさんのマッキニーやペイスがいました。その前にはジョン・ウィリアムスやハーディー・ワードといった世界チャンピオンがいました。それがどうでしょう。今、試合場を見渡しても、いるのは平気で押し手を落としてシュートするアーチャーたちばかりです。それもひとりやふたりではありません。これから日本を支

      • アルマイトを発明したのは誰?

        コンパウンドのインドア競技では、まだアルミシャフトが多く使われていますが、手が黒く汚れることはありません。ところが1970年代前半までは「24SRT-X」や「XX75」といったアルミシャフトが使われていたのですが、雨の試合では手が真っ黒になり、翌日アローケースを開けるとシャフトに粉がふいているのです。 アルミの最大の問題は、表面が空気や水に触れることで酸化し腐食し、錆びることでした。そこで登場したのが、今の ECLIPS の前身となる「X7」です。その表面に施されていたのが、

        • 1回転=1mm=1ポンド

          弓の強さ(ポンド)を表すときには、2つの方法があります。表示ポンド「Bow Weight」と実質ポンド「Actual Weight」です。 実質ポンドは、個々のアーチャーが実際に弓を引いて、フルドロー時の強さを表します。これはそれぞれで異なります。それに対して、表示ポンドは個々のリムに書かれている強さのことで、基本的に同じ基準で測定されています。アメリカの統一団体、ATA(前身はAMO)と呼ばれる組織で決められているもので、以前は弓のバックサイドから矢を28インチ引っ張った時

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        • wheelchair
          4本
        • Technique
          6本
        • Tackle Case
          23本
        • long long time ago
          19本
        • Archer Avenue
          13本

        記事

          レスト

          言葉の通り、その上で矢が休みます。そこに求められるのは、安定性と正確性です。レストは発射台、単に安定と正確さだけなら昔あったように、クギが1本ウインドウに打ち付けてあっても、歯ブラシの先を切って取り付けてあっても、矢が毎回同じ位置にしっかりと乗っていれば問題はないはずです。ところが、それだけですまなくなったのは、鳥羽根がプラスチック製のハードベインに進化したことが最大の原因でした。ハネがレスト部分を通過する時、レストやウインドウに当たりトラブルが起こり、矢飛びや方向性に悪影響

          バーガーボタン

          「種も仕掛けもない魔法の板」を発明したのは、誰だか知りませんが、「種も仕掛けもある魔法のボタン」を発明したのは、誰だかわかります。それは、ホワイトナイトこと、ビクター・バーガーです。 1960年代後半から長い間、それが「バーガーボタン」と呼ばれたのは、彼の名前から付いたもので、後に「クッションプランジャー」と呼ばれるようになります。 バーガーボタンは、アイオワ州のアーチャーでショップを経営するノーム・ピントが発明したともいわれますが、その後多くのアーチャーが普通に使用できる

          EASTONの焦りと誤算

          2023年12月4日、ジム・イーストンが亡くなりました。父、ダグ・イーストンに続いての 、EASTON社2代目のオーナーでした。1989年から2005年までWA(世界アーチェリー連盟)の会長を務め、マッチ形式の導入や連盟初の専門オフィスの設立など、アーチェリーの近代化を長年にわたり実現してきました。また、1994年にはIOCの委員に就任、2015年まで在籍し名誉委員となり、アーチェリー競技をオリンピックに残すことにも尽力し、多くの慈善活動も行ってきました。それらの功績と努力に

          ホイットおじさんの「Hoyt」終わる

          あなたの使っているハンドルの長さは、「何インチ」ですか? 多分、「25インチ」ハンドルです。 では、Hoyt 最初のテイクダウンボウ「TD1」から、その後の「TD2」「TD3」までの10年、これらのハンドルの長さは、何インチだったでしょうか?  知らないでしょうが、すべて「24インチ」ハンドルです。今のハンドルより、1インチ短かったのです。 まだハンドルとリムに互換性がない時代、Hoyt によって24インチハンドルは、世界のスタンダードとなります。そしてHoyt は、24イン

          ホイットおじさんの「Hoyt」終わる

          川上源一 1912年1月30日 - 2002年5月25日

          日本のアーチェリーは、ここから始まりました。 1956年、日本楽器「現・ヤマハ株式会社」の社内にいくつかの運動クラブができ、そのうちの一つが洋弓部でした。学生時代に弓道部にいた「川上源一」社長(ヤマハ発動機社長も兼務)は自ら洋弓部に参加。当時国内では竹製の洋弓しかなかったのが、アメリカ市場を視察した際に、Howard Hill からもらった弓を持ち帰ったことから、日本のアーチェリーが始まりました。 その弓はFRPという新素材で作られ、よくしなり、速く飛び、命中精度の高さに驚

          川上源一 1912年1月30日 - 2002年5月25日

          センタースタビライザー

          昔々、木製ワンピースボウの時代に弓を安定させ、発射時に動きを止めようと、弓本体に「ツノ」のような形状を取り込みました。その後、ツノと併せて「オモリ」を取り付けるようになります。この時はまだ「棒」の先に付いたオモリは発明されていませんが、これらはすべて「スタビライザー」(安定装置)と呼ばれました。 現在では棒のスタビライザーはロッドスタビライザーと呼ばれ、オモリだけのウエイトとは区別されることが一般的です。そこでこのようなロッドスタビライザーがいつから登場したかというと、196

          性能は差し込み角度に宿る

          それは驚異的な出来事でした。誰も見たことがない「白いハンドル」が、いとも簡単に世界記録で栄冠を手中に収めたのです。1972年ミュンへオリンピック、Hoytはまだ市販品でないプロトタイプ、「TD1」を鮮烈デビューさせました。これで、木製ワンピースボウの時代は終わりを告げ、世界は一気に「テイクダウン」の時代になります。 そして3年後、1975年インターラーケン世界選手権で、ヤマハが「Ytsl」で参戦することで、日本は初めて2位入賞を果たし、世界のアーチェリーは、2 つのメーカー

          性能は差し込み角度に宿る

          Precision Shooting Equipment

          Pete Shepley には娘さんと二人の息子さんがいるのですが、今回案内してくれた2番目のJon はPSE で働いています。そこでPeteとJon からいろいろな話を聞いたのですが、いかに我々の住んでいるアーチェリーの世界、それもターゲットを中心にした世界がマイナーであり、小さいかを痛感させられました。それをこの紙面、あるいは言葉だけで説明するには限りがあるのですが、たとえば翌々日の26日にクリスマス休暇中のPSE本社を案内してくれました。 PSE はアーチェリー業界に

          2005年クリスマスイブ

          これは誰でしょう?! コンパウンドアーチャーなら、彼を知らなければ、モグリですよ。 1969年12月20日に成立したAllenさんのコンパウンドボウの特許ですが、これが成立した時、Allenさんは5つのメーカーに特許の使用を認めました。そして当時から現在まで、一貫してコンパウンドボウを作り続けているのは、唯一「PSE」(Precision Shooting Equipment)社だけなのです。そしてPSEは、アメリカ最大のアーチェリー用品メーカーに成長しました。 そんな P

          Earl Hoyt Jr. 1911-2001 Ann Weber Hoyt 1922-2008

          ホイットおじさんも、ホイットおばさんも亡くなってしまいました。憧れのEarl Hoyt Jr.、Ann Weber に初めて会ったのは、1976年の全米選手権でした。1982年の全米選手権まで、毎年顔を合わせていたのですが、クリスマスカードが来なくなって久しく、ふと思い出すことがあったのですが、やはり残念です。 彼らは Fred Bear、Howard Hill、Doug Easton、Pete Shepley らと並ぶ、アメリカのアーチェリーを築いてきた伝説のアーチャーです

          Earl Hoyt Jr. 1911-2001 Ann Weber Hoyt 1922-2008

          HOYT/EASTON

          Hoytは、すでに「Record Holder」の名を手にしていました。日本が初めて参加した1967年Amersfoort世界選手権 Ray Rogers、1969年Valley Forge世界選手権 Hardy Ward、1971年York世界選手権 John Williams と伝説のアーチャーたちはすべて、木製ワンピースモデル ProMedalist 「4PM」「5PM」を使って、世界記録とともに、世界をリードし、1972年からは、テイクダウン「TD1」で世界の頂点に立

          「Take Down」百弓繚乱

          昔、ワンピースボウの時代、タクシーを止めるのも大変でした。止まってくれないのです。そして、やっとの思いで止めたタクシーに、弓を乗せるのも一苦労でした。助手席の窓を開けてもらい、そこから弓を差し込んで運転席との間に載せてもらいます。アローケースはそれとは別に、後ろのトランクです。そして運転手さんには嫌な顔をされて、「編物機ですか?」と言われるのです。 ワンピースボウのデメリットは、それだけではありません。弓が折れれば、別の弓を使わなければなりません。グリップも違えば、ポンドもテ